祝・開業30周年! 「東葉高速線 開業30周年記念展」開催
日本大学理工学部長・轟朝幸先生に聞く 東葉高速鉄道と船橋日大前駅の30年
船橋日大前駅と大学、街の30年について伺いました
提供:東葉高速鉄道株式会社
1996年4月27日に開業した東葉高速鉄道。2026年、開業から30周年を迎えました。
沿線にある船橋日大前駅は、日本大学理工学部船橋キャンパスに隣接する駅です。現在では多くの学生や教職員、地域の方々に利用されています。
今回お話を伺ったのは、日本大学理工学部長で、交通計画・地域計画を専門とする轟朝幸(とどろき・ともゆき)先生です。
轟先生自身も、船橋日大前駅が開業する前の船橋キャンパスで学生時代を過ごしました。その後、研究者・教員として日本大学に戻り、駅の開業後に大学や周辺の街が変わっていく様子も見てきました。
駅がなかった頃の船橋キャンパスはどのような場所だったのか。駅の開業によって、学生生活や大学、街はどのように変わっていったのか。轟先生とともに、船橋日大前駅と日本大学理工学部の歩みを振り返ります。
駅がなかった頃の船橋キャンパス
轟先生が学生だった頃は、まだ船橋日大前駅がありませんでしたよね。当時はどのように大学へ通っていたのでしょうか?
轟先生:
当時は北習志野駅などから歩いていました。駅から大学まで20分くらいかかりましたし、キャンパスに入ってから教室まで行くのにもかなり時間がかかりました。
今とはキャンパスの様子もだいぶ違いましたね。いくつかの大規模な実験棟などもありませんでしたし、昔は冷房も限られた教室や実験室にしかありませんでした。教室では試験のときくらいしか使わせてもらえないような時代でした。
周辺にも今のような住宅地はなく、野原のような場所でした。たぬきや蛇もたくさんいましたよ。
現在の船橋日大前駅周辺からは、なかなか想像できないですね。
轟先生:
本当に変わりましたね。学生だった頃と今では、キャンパスの周辺も大学へのアクセスもまったく違います。
20年以上にわたる船橋日大前駅の誘致
今ではキャンパスのすぐそばに船橋日大前駅がありますが、もともとの東葉高速線の計画には駅がなかったそうですね。
轟先生:
そうですね。当初の計画では、現在の場所に駅はありませんでした。大学としては、やはりキャンパスの近くに駅が欲しいという思いがありましたので、駅をつくってもらうために長く働きかけていったんです。
ただ、駅だけをつくればいいということではありません。駅をつくるためには、その周辺のまちづくりも一緒に考えていく必要がありました。
現在のUR都市機構につながる住宅・都市整備公団などとも関わりながら、駅と周辺の開発が進められていきました。
船橋日大前駅ができるまで
建設中の船橋日大前駅西口駅舎(1995年)
提供:東葉高速鉄道
船橋日大前駅は、自治体や企業・団体などからの要望を受けて設置された「請願駅」です。
日本大学理工学部では、交通土木工学科の三浦裕二先生を中心に、東西線の延伸構想が浮上した当初から駅の設置を求める活動が行われていました。
1976年からは日本大学総長名で千葉県や船橋市などへの陳情を重ねます。しかし、1983年に都市計画が決定された時点では、まだ「日大駅」は計画に含まれていませんでした。
その後、坪井地区で区画整理事業などのまちづくりを進めることを前提に、駅設置に向けた計画が具体化。住宅・都市整備公団(現・UR都市機構)による区画整理事業なども進められ、1991年に当時の「坪井駅」の設置が決定しました。
20年以上にわたる働きかけを経て、船橋キャンパスのすぐそばに駅が誕生しました。
| 年 | 主な出来事 |
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| 1972年 | 東京5号線の西船橋・勝田台ルートが示される |
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| 1976年~ | 日本大学が駅設置に向け、千葉県や船橋市などへ陳情 |
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| 1984年 | 東葉高速線が着工 |
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| 1991年 | 「坪井駅」として駅の設置が決定 |
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| 1995年 | 正式名称が「船橋日大前駅」に決定 |
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| 1996年4月27日 | 東葉高速線とともに船橋日大前駅が開業 |
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【参考資料】 日本大学理工学部広報誌『理工サーキュラー』No.181 「特集100周年へのカウントダウン(3)船橋日大前駅開業前後の40年」
駅の開業で変わった学生生活とキャンパス
実際に駅が開業したことで、学生や大学にはどのような変化がありましたか?
轟先生:
目の前に駅ができたというのは、学生にとっても教職員にとっても非常に大きかったですね。特に大きかったのが、駿河台キャンパスと船橋キャンパスの移動です。
それまでは両キャンパスを行き来するのはかなり大変だったのですが、東葉高速鉄道が開業してからは、乗り継ぎが良ければ45~50分くらいで移動できるようになりました。
当時の時間割では昼休みが1時間20分ほど確保されていたため、鉄道の開業によって、その時間内にキャンパス間を移動できるようになったんです。
そのため、時間割もキャンパス間の移動を前提に考えられるようになりました。
鉄道の開業が、授業の組み方にまで影響していたんですね。
轟先生:
そうなんです。学生の暮らし方も変わりました。
以前は大学の近くに下宿する学生も多かったのですが、交通が便利になったことで、横浜や所沢などから1時間半くらいかけて実家から通う学生も増えました。
一方で、八千代緑が丘など東葉高速線沿線に住む学生や教職員も増えましたね。鉄道ができたことで、大学に通う人たちの生活圏や行動範囲が大きく変わったと思います。
大学の研究・交流にも広がった鉄道の効果
通学以外でも、駅ができたことによる変化はありましたか?
轟先生:
ありましたね。船橋キャンパスには大人数を収容できる教室がたくさんあります。大手町方面から30~35分ほどで来られて、駅を降りればすぐにキャンパスです。
そのため、大きな学会や研究会を開催する場所としても使いやすくなり、数日にわたって開催するような学会でも、参加する方が移動しやすくなりました。
駅ができたというのは、単に学生の通学が便利になっただけではなく、大学の活動そのものにも影響していると思います。
理工学部の技術が生かされた船橋日大前駅
船橋日大前駅は、駅舎の計画や設計にも理工学部の先生方が関わっているんですよね。
轟先生:
そうです。西口の駅舎は、理工学部の先生方が設計に関わっています。未来的な印象のデザインで、金属素材を生かした特徴的な外観になっています。
一方で、東口は赤レンガを使った温かみのあるデザインになっています。西口とは対照的なつくりになっているんです。
駅舎にも込められた理工学部の技術
船橋日大前駅の計画では、駅舎だけでなく、駅前広場やアクセス道路、駅から中央門へと続くキャンパス軸なども一体的に検討されました。
西口駅舎の設計には、日本大学理工学部の伊澤岬先生が中心となって関わりました。また、駅舎には斎藤公男先生が考案した構造システム「SKELSION(スケルション)」が採用されています。
駅舎では、「飛翔」「躍動」「光」をキーワードに、「新しいテクノロジーが感じられる」「地域に開かれる」駅を目指した設計が行われました。
西口駅舎では、鉄とガラスによる大空間から自然光を取り込み、半地下の改札階や地下ホームにも光が届くよう工夫されています。
駅前広場や中央門までを含めて整備されたことで、船橋日大前駅からキャンパスへ向かう新たな動線も生まれました。
【参考資料】 日本大学理工学部広報誌『理工サーキュラー』No.181 「特集100周年へのカウントダウン(3)船橋日大前駅開業前後の40年」
駅とともに育ってきた街
駅が開業してから30年になります。先生は周辺の街が変わっていく様子も見てこられたと思いますが、どのように感じていますか?
轟先生:
本当に長い時間をかけて変わってきましたね。
最初から今のような街があったわけではありません。駅ができて、住宅が増えて、人が暮らすようになって、少しずつ街ができていきました。
最初は快速が停まらなかった時代もありましたが、今ではすべての列車が停まります。交通やまちづくりを専門にしている立場から見ると、まちづくりのシミュレーションゲームを、現実の世界で20年、30年かけて見ているような感覚があります。
※現在、東京メトロ東西線・東葉高速線を「快速」として運行している電車は、東葉高速線内では各駅に停車し、東京メトロ東西線内では快速運転を行っています。
一方、当時「快速」とは別に運行されていた「東葉快速」は、東京メトロ東西線内での快速運転に加え、東葉高速線内でも快速運転を行い、西船橋・北習志野・八千代緑が丘・東葉勝田台のみに停車する種別でした。
駅をつくった瞬間に街が完成するのではなく、その後も時間をかけて変わっていくんですね。
轟先生:
そうですね。駅ができて終わりではありません。
そのあとに人が住み、生活が生まれて、大学や地域との関係もできていく。そうしたものが積み重なって街になっていくんだと思います。
地域に開かれていった大学
街ができていく中で、大学と地域との関係も変わってきたのでしょうか?
轟先生:
そうですね。地域との関わりはいろいろあります。
例えば、地域の子どもたちが参加するハロウィンイベントでキャンパスを使ってもらったことがあります。キャンパス内は車が通らないので、子どもたちも歩きやすいんです。学生が仮装して参加したり、ロボットや飛行機を見てもらったり、一緒に写真を撮ったりすることもありました。
ほかにも、北習志野のお祭りや船橋の市民祭り・産業まつり、「ふなっこ未来大学」などに学生が参画し、市民の方々にものづくりを体験してもらう活動も行ってきました。
災害時の協定や、消防の訓練場所としてキャンパスを使ってもらうこともあります。近隣でイベントがある際に駐車場を貸し出したり、警察から相談を受けて学生がボランティアとして協力したりすることもありました。
船橋日大前駅でも、学生による活動が行われていたそうですね。
轟先生:
以前は学生たちが駅の清掃活動をしたり、クリスマスイルミネーションを行ったりしていました。
駅の設計に関わった三浦先生や伊澤先生たちが、「自分たちでつくった駅を自分たちで守ろう」ということで始めた活動です。
学生ボランティアと一緒に駅をきれいにしたり、地域の方にも楽しんでもらえるような活動をしていました。
現在は新型コロナウイルスの影響や安全面への配慮などから、以前と同じ形では行っていない活動もありますが、大学と駅、地域との関わりは続いています。
30周年から、その先へ
東葉高速鉄道が30周年を迎えました。これから大学として、鉄道や地域とどのように関わっていきたいと考えていますか?
轟先生:
これからも東葉高速鉄道とは、いろいろな形で一緒に取り組んでいけたらと思っています。
駅には人が集まれるスペースもありますし、大学には学生がいます。学部祭でも何か一緒にできないかという話はしていますが、まだ実現できていないこともあります。
例えば、これは飲みながら冗談交じりに話していたようなアイデアなんですが、「千葉県の鉄道会社を集めて物販をやったら面白いよね」とか。
東葉高速鉄道にも協力してもらって、学部祭の日に「日大前」のヘッドマークを付けた電車を走らせられたら面白いよね、なんて話もしていました。
実現したら、学生だけでなく地域の方も楽しめそうですね。
轟先生:
そういう楽しいことを、学生も巻き込みながらできるといいですよね。
学生にも、自分たちが通学で利用している鉄道や、自分たちが学んでいる大学のある地域に愛着を持ってほしいと思っています。大学で専門的なことを学ぶだけではなく、地域の中に入って、一緒に街をつくっていく。
そういう経験ができる環境を、これからもつくっていきたいですね。
これからの取り組みも楽しみですね。本日は貴重なお話をありがとうございました!
1996年4月27日の開業から30年。
船橋日大前駅の誕生によって、学生や教職員の移動はもちろん、キャンパスでの研究や交流、周辺での暮らし、大学と地域との関係にもさまざまな変化が生まれてきました。
その一方で、船橋日大前駅は最初から現在の場所に計画されていたわけではありません。長年にわたる駅設置への働きかけと周辺のまちづくりを経て誕生し、その後も街の発展とともに、大学や地域との関係を育んできました。
駅がなかった時代を知り、開業後の変化も見てきた轟先生のお話から、船橋日大前駅が単なる交通手段にとどまらず、大学と地域をつなぐ存在として歩んできたことが伝わってきました。
東葉高速鉄道の開業30周年は、その歩みのひとつの節目です。これからも学生や地域の方々が関わりながら、船橋日大前駅と日本大学理工学部、そして周辺の街がどのような歩みを重ねていくのか楽しみです。
轟 朝幸(とどろき・ともゆき)先生
日本大学理工学部長/日本大学大学院理工学研究科長/日本大学理工学部交通システム工学科教授
1964年、長野県生まれ。1988年に日本大学理工学部交通土木工学科を卒業し、1993年に日本大学大学院理工学研究科博士後期課程を修了。同年、日本大学助手に就任しました。
その後、東京大学助手・講師、高知工科大学助教授などを経て、2003年に日本大学へ着任。2008年に教授、2023年から第17代日本大学理工学部長を務めています。
専門は交通計画・地域計画。公共交通や都市交通、空港・航空交通など、交通と地域の関係について研究しています。
「東葉高速線 開業30周年記念展」を船橋日大前駅で開催!
※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。